【フランス】

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- 正式名称は、République française
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- 通称フランスは、西ヨーロッパ西部に位置する共和制国家。北東にベルギー、ルクセンブルク、東にドイツ、スイス、南東にイタリア、モナコ、南西にアンドラ、スペインと国境を接し、西は大西洋に、南は地中海に面する。漢字による当て字は、仏蘭西、法蘭西などと表記することもあり、仏と略されることが多い。国名のFranceは、11世紀の『ローランの歌』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されているFranceはフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国le Royaume de Franceに、Franceという名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであってその時代にFranceという国名の存在を認定できるわけではない。ドイツ語では直訳すればフランク王国となるFrankreich(フランクライヒ)を未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するためにドイツ語でフランク王国はFrankenreichと呼んでいる。
【フランスの歴史】

- ローマの支配から王政時代

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- 現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻した。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールは幾つかの属州に分割され、ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。360年にゴール北部の都市ルテティアはパリと改名された。5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。476年に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後はピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、イタリア、ドイツの基礎となった。また、この時期に現代に続くフランス語の形成が始まった。987年に西フランク王国が断絶するとパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出され、カペー朝の下でフランス王国が成立した。1209年にアルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現在の南フランス)のカタリ派を殲滅した。王朝は17世紀のルイ14世の時期に最盛期を迎えている。この時期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治、経済、文化に絶大な影響力を持っていた。フランス語は外交の舞台での共通語となっていた。18世紀にはフランスの知識人の中から多くの啓蒙思想が生まれ、科学的な大発見がなされている。加えてフランスはアメリカ、アフリカ、アジアに広大な海外領土を獲得していた。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビやコーヒーのプランテーションが築かれ、1804年のハイチ革命によってハイチが独立するまで莫大な歳入をフランスにもたらした。
- ガリア

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- 古代ローマにおいて、ほぼ現在のフランスにあたる地域はガリアと呼ばれており、ケルト人が居住していたと考えられる。このことは、紀元前58年から紀元前51年にかけてガリア遠征を行ったガイウス・ユリウス・カエサルによる「ガリア戦記」などからもうかがえる。こうしてローマの遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、ローマ化が進んでいった。古典ラテン語:Gallia (ガッリア)、フランス語:Gaule (ゴール)日本語では、当時のローマ人が用いた古典ラテン語の発音に従って「ガッリア」とも表記される。具体的には現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などを指す。なお、現代ギリシャ語では「ガリア」(Γαλλία)とは、フランスのことを意味する。
- フランク王国

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- メロヴィング朝
- 4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人の移動にともない、ゲルマン人の一派であるフランク人がガリアに定住した。481年にクローヴィスがフランク諸族を統一してメロヴィング朝フランク王国を建国すると、旧ローマ帝国領であるガリアの現住民がカトリックを信仰していたため、統治を円滑に行うことも狙ってカトリックを受容した。メロヴィング朝においては、徐々に宮宰を務めるカロリング家が台頭していき、8世紀前半の宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた。
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- カロリング朝
- 当時、聖像禁止令などをめぐり東ローマ皇帝との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子ピピン3世は、ローマ教皇の支持にも助けられて、カロリング朝フランク王国を創始した。この返礼として、北イタリアのラヴェンナ地方を教皇に寄進したことは、ローマ教皇領の起源となった。さらにその息子であるシャルルマーニュは、ザクセン人の討伐・イベリア半島への遠征、アヴァール人の撃退、ロンバルド王国の討伐などその名声を高め、800年にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を受けた。
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- 西フランク王国
- シャルルマーニュの息子ルイ1世には3人の息子がおり、843年のヴェルダン条約によってフランク王国の所領が三分割された。その後、870年のメルセン条約で領土の見直しが行われ、現在のフランス・ドイツ・イタリアの礎となる西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国が成立した。
- カペー朝

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- 成立
- 987年、西フランク王国の国王ルイ5世の死去によりカロリング朝は断絶した。このため、ロベール家の出身者であるユーグ・カペーが国王として推挙され、フランス王として即位することとなった。しかし国王はパリを中心とするイル=ド=フランスを抑えるのみで、王としての権威の他にはほとんど実効的な権力をもたなかった。
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- 王権の強化
- 12世紀前半のルイ6世の時代から王権の強化が始まり、1180年、カペー朝の第7代国王として即位したフィリップ2世(尊厳王)は、巧みな政略結婚や、イングランド王室での内部抗争などを利用して国王の権力を強化することに成功した。そしてリチャード1世の死後、後を継いだジョン王が暗愚なのを見てノルマンディーやアンジューを奪い、一時はロンドンまでを支配するなど、領土を大きく拡大した。14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図ったフィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。1302年、状況打開を求めたフィリップは、三部会を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た。その上で、翌1303年にアナーニ事件を引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。
- ヴァロワ朝

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- 百年戦争
- 1328年にヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位した。しかしフィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で百年戦争が勃発した。当初は、イングランドが優勢であり、クレシーの戦いやポワティエの戦いで勝利を収めていた。しかし、ジャンヌ・ダルクの登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的にはドーヴァー海峡に近いカレーを除く大陸領土をフランスが制圧して終わった。
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- イタリア戦争・ユグノー戦争
- 15世紀末、シャルル8世はイタリアへの勢力拡大を図ってイタリア戦争を引き起こした。これに対してハプスブルク家も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家とハプスブルク家の間の対立の端緒となった。結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した。16世紀後半になると、30年以上にわたる内戦となったユグノー戦争が勃発した。ついに1589年にはフランス王アンリ3世がパリで暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。
- ブルボン朝

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- ブルボン朝の成立
- 1589年、ユグノー戦争におけるカルヴァン派側の首領であったナヴァール王アンリが、フランス王アンリ4世として即位し、ブルボン朝が成立した。1598年には宗教的寛容を定めたナントの勅令を出し、個人の信仰の自由を認めて、30年以上にわたって続いたユグノー戦争を終わらせた。しかし、1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に倒れ死去。次王ルイ13世は、宰相リシュリューの補佐のもとでさらに王権の強化を推し進めた。1643年にルイ13世が死去したことで、まだ5歳だったルイ14世が即位したが、宰相のマザランがよく補佐した。1648年には三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約(独語:ヴェストファーレン条約)でアルザス地方とロレーヌの3都市を領土に加えた。
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- ルイ14世の親政期
- 1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった。当初、イングランドのステュアート朝と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、名誉革命によってオランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位してしまったため、対英関係は完全に悪化。
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- 財政
- 長期にわたるイギリスとの抗争は、徐々に両国の経済的状況を反映して、フランスが劣勢に陥っていった。王権神授説を信奉するルイ14世によって1685年にナントの勅令が廃止され(フォンテーヌブロー勅令)、国内の富裕なカルヴァン派が国外に流出するという事態を招いた。奢侈の限りを尽くしたヴェルサイユ宮殿の建築、運営もフランス財政に重くのしかかった。
- 王政から共和政へ

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- 1789年にフランス革命が起きて王政は倒され、1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となっている。政治的混乱ののちに、1799年にナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、第1統領となり、やがて皇帝に即位して第一帝政を開いた。ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパの大部分を制覇し、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となっている。1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた後、フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約されていた。1830年、7月革命によって立憲君主制による7月王政が立てられた。この王政は1848年に終わり、第二共和政に移行するが、1852年にルイ・ナポレオンが第二帝政を開く。1870年の普仏戦争に敗れたナポレオン3世は退位し、第三共和政に代わった。1919年から1939年の最大時にはフランスは12,347,000km²の領土に広がり、世界の陸地の8.6%を占めていた。フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており、この時は領土の一部だけが占領されたのにもかかわらず、第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。フランス第四共和政が成立し、経済は再建されたものの列強国としての地位は崩れかけていた。フランスは植民地体制を守ろうとしたが、脱植民地化時代の潮流には逆らえず、すぐに苦境に陥ることになる。フランス領インドシナの支配を回復しようとして、抵抗するベトミンとの間で第一次インドシナ戦争が勃発し、1954年にディエンビエンフーの戦いでベトミンに大敗を喫してインドシナから撤退している。1973年の石油危機以降、フランスは深刻な経済危機と低成長を経験しており、政権の交代が繰り返された。その為、1986年 - 1988年、1993年 - 1995年、1997年 - 2002年にはコアビタシオンが起こっている。1950年代からのドイツとの和解と協力によって、両国はヨーロッパ経済共同体(EEC)や1999年1月のユーロ導入を含む欧州統合に中心的役割を果たして来た。フランスはヨーロッパ連合の主導国の一つであり、ヨーロッパの政治的統合を強く支持しているが2005年の欧州憲法批准は国民投票で拒否されてしまった。2008年2月にこれを継承するリスボン条約が議会の承認を得ている。
- 政治

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- 現在のフランスは、直接選挙で選ばれる大統領に首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれている。このため、先進国の中でも日本などと並んで官僚機構が強いと言われることが多い。大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、共に行政権を持つ。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。議会は二院制を採用し、上院に当たる元老院と、下院にあたるフランス国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制と二回投票制度が定められている。主要政党としては、国民運動連合(保守・右派)、フランス民主連合(中道・若干右寄り)、社会党(中道左派・社会民主主義)、フランス共産党(左派)がある。また、以下は議席を持たないが、国民戦線(極右・移民排斥)、反資本主義新党(極左)、労働者の闘争(極左・トロツキスト政党)も存在する。
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- 大統領に付与された強権
- 大統領は以下のような権限を付与されている。国民議会を解散する権限(これに対し、国民議会も内閣不信任決議権を持つ)。ただしアメリカの大統領とは異なり、議会で可決した法案に対する拒否権は持たないが、憲法裁判所へ申し立てをする権利を有している。国民議会は国家反逆罪を除き、大統領への弾劾裁判権を持たない。シラク前大統領も、現職中及び退任後1ヶ月は、パリ市長時代の汚職疑惑による訴追から保護されていた。アメリカの議会は軽罪でも大統領を弾劾裁判にかけることができる。議会を飛び越して法律案や条約批准案、憲法改正案を直接国民投票にかける権限。非常事態権(第五共和政憲法第十六条)を行使する権限。この権限が行使されている間、国民議会は開かれ、また憲法改正は制限される。大統領は直接、有権者の投票により選出され、その任期は7年と先進国の中でも極めて長い。
- 国際関係

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- アンシャンレジーム期からイスラム圏のオスマン帝国と同盟を結ぶなど独自外交を貫き、第五共和制成立後も冷戦構造の中でフランスの影響力を保つためにOTANの軍事機構からの脱退や、1973年から始まったフランス・アフリカ首脳会議の開催などアフリカ諸国との友好関係の強化が行われ、ヨーロッパにおいても西ドイツ(当時)と共に欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合の主要国として存在感を高めている。フランスが自国の勢力圏と見なす旧植民地のアフリカ諸国との関係においては、暴動や内戦の際に親仏政権の維持のための軍事介入が行われることなどもあり、現在もセネガルやジブチにはフランス軍の軍事基地がある他、1994年のルワンダ虐殺や、2002年に始まったコートジボワール内戦にも介入している。こうしたフランスの姿勢を新植民地主義であると批判する声もある。
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- イギリスとの関係
- フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。イングランドは、ノルマン・コンクエストを通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルクが活躍したことで有名な百年戦争は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。こうした歴史的経緯から、フランス人とイギリス人の間には根深い対抗意識が根付くこととなった。英単語でフランスを意味する「フレンチ」がつく単語はあまり良くない意味であることが多く、フランス語でイギリスを意味する「アングレーズ」がつく料理は簡単かまずいかのどちらかであるといわれている。
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- 日本との関係
- 1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。その後、第一次世界大戦においては連合国として戦い、1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど人権意識が高かった。その後の第二次世界大戦においては、フランスが早期に親独のヴィシー政府となり、フランスがアジアに持っていた植民地である仏領インドシナもヴィシー政権の影響下に置かれた。1940年のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介により東京条約を締結しタイとの戦争を終結させた。パリ解放後の大戦末期にインドシナで明号作戦により、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。現在も官民を問わず活発な往来が行われている他、経済的にも文化的にも深くかつ幅広い交流が行われているなど親密な友好関係にあり、首都のパリと日本の首都の東京都は姉妹友好都市関係にある。